昭和45年03月16日 夜の御理解



 御理解に心は信心の定規じゃによって、お伺いをする時にはとりわけ平気でなければならない。落ち着いて静かに願えと。神様にお伺いなどを致す時には、心が落ち着かなかったり、または、乱れておったりしては、御神意は伺われないというわけですけれども、ま、段々信心をさせて頂くようになって、そのように神様にお伺いの一つもさせて頂けれるくらいなおかげを頂かなければならんと思いますね。
 今日私は、心は信心の定規と仰るところが大変大事なところだと思うですね。心は信心の定規だと、だから自分の信心を見極めると言うことは、自分の信心を見極めると言うことは、自分自身の心を見たが、だから一番分るわけですね。自分の心、自分の信心ちゅうのはこの程度のものだと言うことが良く分かります。ですからそこんところから、あの信心が成されるということがです、私は自分の足元から外へ向かって、はわいていくようなおかげであると思いますね。
 私は今日、只今ご祈念中にお掃除をしているんですよ。それがその、はわいておるですけれども、あの、なんちゅうかね、はわいておるけれども、またこちらの方からはわいたり、あちらの方からはわいたりしているわけです。だから、ゴミと言うものいつもそこを動かない、って言ったような状態のところを頂きましたんですけれど。あの、今御理解いただきますとその、心は信心の定規じゃと仰る、そのことが、確かに信心の定規として自分の心と言うものを見極めるということ。で、そこに。
 まあ、イライラの元があったり腹立ちの元があったり、または浅ましいことを考えておったり、そのいろんな、これでは成程おかげが受けられんと言ったようなものを、私はその自分の足元のなかから、自分の心の中から発見して、それをこの向こうへはわき出していく、それをこのま、清めて行くというような信心を成していかなきゃいけない。だからもう確かに、あの心は信心の定規ですから、ね。
 自分の心を見極めて、その心が自分で、自分ながら自分の心が拝みたいようなものであるというか、ね、有難いとこう思う心というか、なら最近言われておるその和賀心と言うその、和賀心を目指すということも、いつも信心の、心を信心の定規だと分らしてもろうて、これには和賀心が、ほど遠い自分であることを気付かせて頂いて、そこんところを本気で清めいてくおかげを頂かなければいけないと思うですね。
 自分の足元からはわいていかなければ、とんでもないところから、子供の方からはわいてきたり、主人の方からはわこうとしたりするところに、間違いがある。自分の心の中からはわいて行かにゃいけん。ね、そこから、段々清めて行くというおかげを頂かにゃいけません。そこに私は、あの、和賀心を信心の定規としていく、いわゆる間違いのない信心の進め方と言うものがあると思うですね。
 何年、何十年信心しておっても、そこんところを極めて行かないなら、いつまでもごみは自分の手元、いかにもはわいたごとあるけれども、またゴミが溜まっておると言ったような結果になりましょうね。こちらにはくから、はわいたと思うたらまた向こうからはわいて来とる、と言ったようなことになりますから、ね。
 どうでも一つ、本気で和賀心を目指さして頂くのでございますから、その根本になるところの自分の心の程度、信心の程度と言うものを自分の心の中にはっきり見極めて、そこから信心が清められていく、心が清められていくと。心が確かに信心の定規なのですから、ね、その定規でおし測って行きながら、段々有難くならしていただけれる自分を楽しみに信心していかなきゃいけないと思うですね。
   どうぞ。